毎年、娘の生まれた日に思うこと
毎年、娘の誕生日には、娘が誕生した人生最大の喜びと共に、人生最大の恐怖を味わったことを思い出します。
その恐怖の方とは、自分は妻を失うのではないか、ということです。
休日の夕方、陣痛が始まり病院へ。
「そろそろですね」「あと2,3時間ね」という周りの声とは裏腹に、なかなか産まれません。
気付けば、丸2日間以上経過し、その間、妻はずっと苦しみ続けていました。
そして3日目。ふと眠い眼差しを妻に戻すと、ホラー映画のようにものすごい勢いで痙攣し、口からは大量の泡が。
体力の限界だったようです。
夜明け前の分娩室の静けさが一転、慌ただしくなりました。
医師や助産師が多数、駆け付けます。
複数人がかりで、暴れる妻の体を押さえつけ、麻酔を投与。緊急帝王切開に。
「大丈夫なのでしょうか」
「わかりません」との医師の返答。
妻は大丈夫なのか、赤ちゃんは大丈夫なのか、それとも…。
さまざまな思いが錯乱し、誰もいなくなった部屋で一人、本気で神にすがりました。
しばらくすると手術室から産声が聞こえました。
娘は無事に産まれてきてくれました。(念のため保育器に入りました。)
その後、ストレッチャーで運ばれてきた妻の心拍数らしき数値が相当低かったため、かなり焦りました。
これは、麻酔が効いているためと説明を受けて一安心も束の間、
「調べてみないとわからないけれど、脳障害等もあるかもしれません」と言われました。
数時間後、目を覚ました妻に「誰かわかる?」と聞いて、うなずいてくれたときには涙が止まりませんでした。
この経験も、日常の中では忘れています。妻とはよく小競り合いもします。
しかし、毎年、娘の誕生日は、妻が命がけで娘を産んだことへの感謝と「足るを知る」ことを思い出させてくれます。
生まれながらに親孝行な娘を授かったと思います。
昼過ぎに帰宅すると、リビングの壁に誕生日の飾りつけがあったのに気づきました。
妻が架けてくれていたのだと思います。おお、さすがだなあと思いました。