妻との教育談義(不定期開催)
年末、研修から帰ってきた妻が「主体的ってなによ?」という話をしてきました。
そこから年に数回、不定期開催の教育談義が始まりました。
「主体的とは選べる事じゃない?」と私。
「じゃあ、例えば教師が主体的になりすぎて、かなり作りこんだ授業を展開したとするよ。その筋書通りに進めるしか方法がないとしたら、子どもの主体性はどうなるの?」
どうやら研修会で感じるものがあったようです。
私は日本史好きなもので、ついつい歴史の授業に力が入ります。
例えば、聞かれてもいないマニアックな話や雑学を投下してしまいます。
その話を面白いと思う子もいる反面、誠に申し訳ないことにそうじゃない子もいます。
つまり、作りこんだ授業がマッチする子もそうでない子もいます。作りこむ熱量を否定はしません。とても共感してしまいます。
ただ、教師がかけた熱量(時間・費用等)が本当に全ての子どもたちにマッチするのかと言ったら、これは疑問が生じます。
主体的とは、誰に係ってくる言葉か。当たり前のようですが、ここを意識することが外せないように思います。
ドラッカーの「非営利組織の経営」に「学ぶ意欲をもった人間をつくり出す」のが非営利機関「学校」の役目とありました。
学校こそ、集団の中で、個々の主体性や強みが発揮されることに寛容な場所だったら、シンプルに良い場所ではないですか。
夕食前の短い妻との教育談義でしたが、人と語ることは大事だなあと感じました。
春、現場に戻ったら、また一兵卒として、その理想を追いかけたいと思います。
自分の思いのごり押しではなく、子どもたちや職員の皆さんと対話しながら。