教師不在でも学び合う子たち
先週の金曜日、私はある事情で授業に15分くらい遅れてしまいました。
算数の時間でしたが、「ごめんごめん」と教室に入ると、子どもたちは自分たちで学び合っていました。教室のあちこちにグループを作って、問題を解いたり、説明したり、質問したりしていました。私は一言、「お!すごい!」と言いました。驚きもありましたが、そりゃあ、できないわけはないか!とも思えました。
教師がいなくても、授業が始まるということ、子どもたちは自分たちで学びの主体になれることを、この日、この時間に再認識しました。
もちろん、いつも全員が学び合うわけでもありませんし、日々、気になる子や気になる行動は見えています。最近、あまり使わなくなっていた「一人も見捨てない」という言葉についても考えています。授業場面では、以下のように考えています。
相手やクラスメートの「教えた…ふり」「わかった…ふり」「俺は1人で学びたい…ふり」の「ふり」まで興味をもつ。(他者の考えや感じ方や背景に興味をもつエンパシーに似ている?)そうすることで自分もその集団にいることによって助けられるサイクルが生まれ、結果的に自分を含めた「一人も見捨てない」ことになる。
とはいえ、これは個人の考えなので、目の前の子どもたちなりの「一人も見捨てない」とはどういうことなのか見つけていけばいいのだろうと思います。
あと半年したら、私は子どもたちと共にいません。不在です。
だからこそ共に授業を超えた「一人も見捨てない」の意味を問い、考えていきたいと思います。