読書会で学んでいること
読書会。書を読んで、自分で考えて、他者と議論することができます。それが私にとって、成長の機会になっています。年齢も立場も住んでいる所も異なる人たちと話すことができます。それによって、知らなかった世界を知ったり、新しい視点を手に入れたりできます。また、その時間で得るものはそれぞれ違っていいのだと思います。
このサイクルは、最近の道徳の授業に生かされています。
カテゴリー化された価値項目に拘らず(そもそも確認していないことが多い…)、多様な考え方や思いを語り合います。
オープンエンドでいいし、その時間に響かない子がいてもいい。
道徳の授業は、1つのゴールに着地させようとするのではなく、自分や他者の価値観を深めるためのプロセスなのだろうと思っています。
子どもたちから生き方についての質問を受けます。ここで読書会で学んだことが生きるときがあります。読書会に参加して考えることと子どもたちと対話することが相互補完しています。週1の道徳が楽しみになっている自分の変化も面白いなと。
問答(勉強のタイミング)
子どもたちと「勉強のタイミングはいつがよいか」みたいな話になりました。
「その日の学んだことや記憶したものは、なんにもしないと次の日には半分くらいまでの内容しか覚えていられない。じゃあ、どうするかと言うと24時間以内に一度、反復したり振り返ったりする。そして1週間後に1回、1か月後に1回復習すると長期記憶として脳に定着すると言われている。だから、まずは、その日のうちに復習するというのは、記憶の面からすると、得なんだと思うよ。」
そういえば、この1年半ほどSNSやブログでその日に考えたことや思ったことを投稿していきました。それを何かのタイミングで読み返すといったことがあり、「へえ、そんなこと書いていたっけなあ」とか、読んだ書籍の気になった一節を再び、目にしたりしていました。
その効果なのか、以前より自分なりに伝えたいことや大事なことを言葉にしやすくなってきたなあという気がしています。続けた行動のリターンが今につながっているのかもしれません。なので、その日に思ったことや感じたことを記した投稿や発信は、誰のためというよりも、今後の自分の思考の基だと思うと、続けたほうがリターンがあるのだと思いました。
こんなことを子どもたちに話した直後ではなく、後になって丸付けしながら、ふと思いました。子どもに向けた言葉は自分に返ってくる。そんな感じです。
学級経営伴走ゼミに参加して
上越教育大学の教職大学院の同期だった現職さん(赤坂研究室)が主催している「学級経営伴走ゼミ」(オンライン)に参加させていただきました。もともと学級経営について関心があるのですが、院で学んだことを還元したいという高い志に刺激を受けるために参加しようと思いました。
2年間の学びを伝えるアクションに参加者のリアクションが生まれ、学びが積み重なっていく時間。本当に多くの気付きを得られました。
繰り出される言葉たちに、アンテナが数々反応したのですが、その中の1つ。
「6年生が安定している学校」
初めて高学年を担任したときに「6年生の姿は学校の鏡」と言われたことを思い出しました。
現在の学校のシステム上、子どもたちの育ちが歴代の学級担任の属人的な力量に依る部分は多いと思います。しかし、担任も専科もTTも管理職も保護者も含めた大人が6年間という月日をかけた結果が現在の6年生と捉えることも、また必要なのだと思います。学校として、どんな6年生に育てていくか。さらに学校教育は中学、その先の未来の姿にどのように繋げていくか。
仮に6年生が学校の目指す姿を体現できているとして、その姿を他の学年に無理なく伝えていくとしたら、どうしたらいいか?
やはり、私には日常的な異学年による授業(学校生活の大半)が、子供も教職員同士も様々なものを伝達できるには最短距離だなと思いました。
学びの多様化が話題になってます。これからの学級経営はどのように変わっていくのか、いや変えていくのか。学校、学級という枠組みも多様になるのではないかなと期待している自分がいます。
上越で繋がったご縁に感謝。
「ポイ捨てしちゃダメよ~」と言ってみたら?
道徳でチョモランマ清掃登山隊の野口健さんについて学びました。
富士山やチョモランマに捨てられたごみを拾っていく自然愛護のお話です。
道徳では、資料をきっかけに、自らの生活や身近な事象にどうやって反映させていくか考えさせることが肝ではなかろうかと。そこで「ついつい、教室にごみをポイ捨てしてしまいがちな〇〇さんの行動を変えるにはどうしたらいいのだろう?」と課題を出しました。
いろいろと考えている様子を見守っていました。その行為を変えるためには、子どもたちは、何を考えるんだろうと期待しながら…。
帰りの会で、整頓当番の子が挙手して言いました。
「ポイ捨てしちゃダメよ~。ダメダメ。と隣の人に言ってください!」だそうです。
反応よく、ダメよ~とか言い合っていました。
笑ってしまいましたが、子どもたちが納得し、ポイ捨てはダメだよなあが集団に伝わっていくなら、それもありなのかもしれません。教師による「ごみは捨てるな」より効くのかもしれません。
問答(誹謗中傷について)
先日、授業で、児童から「先生は、誹謗中傷について、どう思いますか」という質問を受けました。そのときの私の答えと、その背景にある考え方をシェアしたいと思います。
「まずネット上の匿名による誹謗中層は、名前を残さないところから卑怯だと思う。それと、誹謗中傷は、された側が自死に追い込まれた事件もあった。見ず知らずの他者から怒涛のように非難されることは、大人でも相当、心が参ってしまうということ。こんな質問をするあたり、される側にもする側にもなりたくないんだよね。確かになんの得にもならない。特にインターネットへの書き込みなどは、自ら背負うリスクも高い。私だったら絶対にやらない。」
ネット上で行われる誹謗中傷等の書き込みリスクとしては以下のようなものがありました。
・自分の書き込みが永久に残り、将来的に自分に不利益をもたらす可能性がある
・自分の書き込みが犯罪(名誉毀損や侮辱罪など)に当たる場合があり、法的な責任を問われる可能性がある
それよりも、私の目の前にいる子どもたちも、やがて親になる日がくると思います。そして、我が子の可愛さを知り、我が子へ願いを語るときに、他者の子を誹謗中傷した過去が親となった自分を苦しめるのではないか?とも思います。私は、それはかなり大きなリスクだと感じます。
40人いたら受け止め方も40通り。ただ、名前を出さずに相手を非難することはフェアじゃないこと、誹謗中傷はなんのメリットにもならないことは、なんとなくでも感じ取ってもらえたらいいなあと思っています。自らが不利益を被らないためにも。
妻の足の指が骨折した話
昨日、妻が足の指を骨折しました。人生初骨折です。
なぜ、そんなことになったかというと、ベッドにダニ撃退シート?を取り付けようとしたときに、ベッドの足の角に、右足をぶつけてしまったのです。
妻は激しい痛みに耐えながら、助けを求めてきました。妻の足を見てみると、右足の人差し指が腫れていました。それだけではなく付け根が曲がっているように見えました。
数時間後に娘のピアノのコンクールがあったため、なんとか痛みをこらえながら、移動・鑑賞したものの、その後、救急外来へ連れて行きました。レントゲンを撮ってもらうと、やはり折れていました。
また、医師からは骨粗しょうの傾向かもと言われたようです。骨折はしたものの、身体の状態が分かったのであれば、一病息災とプラス思考でいきたいものです。
妻は、しばらく家事のパフォーマンスは低下は必至です。代わりにできることをするつもりです。困ったときはお互い様ですからね。妻が早く回復するように、私は早く帰ります。
皆さんも、ベッドの足の角に気をつけてください…。相当、痛いみたいですよ。